東洋
東洋整体の整体師とは、東洋整体を施術する整体師のことです。 東洋整体とは、西洋医学の解剖学・生理学に基づいて、東洋医学4千の体験医学を取り入れ、骨格・神経・筋肉・血行・栄養の5つの要素を矯正と調整をする事により、痛みを取り、体の病的状態を本来の機能に回復させる治療法です。 東洋整体は、人間が本来持っている免疫力と代謝機能を高め、自然治癒力の強化を図ります。 整体治療をすることにより、生理反応が正常になると体を構成する細胞が活発化し、それぞれの器官が正常な形に生まれ変わることができ、正常な機能をはたすようになります。 体の 無垢フローリングを損なうような無理な矯正や、激痛をともなう神経の刺激、過度の揉みほぐしなどはせず、異常のある体の状態に合わせて適切な治療を施すので、乳幼児から年配の方まで幅広い年齢層や様々な症状にあわせて施術をおこなう為、身体に優しく安全な技術です。 安倍晴明(あべのせいめい) 921年(延喜21年)-1005年(寛弘2年) 後の土御門氏の祖。遣唐使に参加して陰陽の本場城刑山で伯道上人(白道仙人とも)に学び、帰国すると特殊化・秘伝秘術化した独特の陰陽道を築き上げた。陰陽道の名典「金烏玉兎集」を著したとも言われているが、伯道上人に教えを受けた際にこれを授けられたという説も多い。ただし晴明の著作として確認されているのは、晴明の子孫である土御門家に伝わった「占事略决」のみである。陰陽諸道の中で最も難しいと言われていた天文道に長じ、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の6代天皇、藤原道長・藤原実資に重用されて影響力をふるった。天文博士を勤めた後には陰陽寮を超えて主計権助・大膳大夫・左京権大夫・大国である播磨守などの官職を歴任して「従四位下」まで昇進した。時の権力者の影となり日なたとなり活躍したために出世したと言われている一方で、極めて謎の多い人物でもある。セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星)という呪符を使い、人形を使って「青龍」・「勾陳」・「六合」・「朱雀」・「騰蛇」・「貴人」・ セミナー・「大陰」・「玄武」・「大裳」・「白虎」・「天空」の式神(しきがみ)十二神将を自由に駆使し、驚異的な呪術を展開したとされている。また、没後かなり早い段階から“鳥が話す言葉を理解できた”、“母は信田の森に棲む「葛の葉」という白狐だった”、“両性具有者だった”など、その超人ぶりと特異性をあまりにも誇張した数多くの伝説が残っており、古事談・大鏡・宇治拾遺物語・古今著聞集・今昔物語集・體源抄・日本紀略・権記・平家物語・大江山絵詞・元亨釈書・源平盛衰記・発心集・北条九代記・私聚百因縁集、歌舞伎や文楽の題目信田妻(しのだづま)・蘆屋道満大内鑑、仮名草子安倍清明物語、はては近年の夢枕獏による小説や岡野玲子による漫画、数多くの映画化・ドラマ化やゲームのキャラクターなど、中世から近世・現代に至るまであまたの著作の題材として取り上げられている。1007年に一条天皇によって屋敷址の一部に建立された晴明神社は、一度は焼失したものの復興されて京都市上京区堀川通一条上ル806に現存しているほか、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町には晴明神社の飛地境内としてその墓標が残っている。 安倍吉平(あべのよしひら) 954年(天暦8年)-1026年(万寿3年) 安倍晴明の嫡子。父同様に賀茂光栄と並び称される陰陽師として藤原道長・藤原実資らに重用され、 監視カメラ・陰陽博士から陰陽助にまで昇進し、位階は従四位上まで取り立てられた。五龍祭や四角祭を勤め(日本紀略)、藤原道に取り憑いた具平親王の悪霊を賀茂光栄と共に祈祷して取り除いたり(宝物集)、親仁親王出産の際に死去した皇妃嬉子の入棺・葬送に関する方法を藤原頼道に勧申したり(栄花物語)している。古今著聞集には医師・丹波雅忠(たんばのまさただ)と宴を囲んでいた際に地震を予知したとの詳しい記載がある。 安倍吉昌(あべのよしまさ) 955年(天暦9年)? - 1031年(長元4年)? 安倍晴明の2子。感受性豊かで向学心が強かったため賀茂保憲に目をかけられ、1017年に安倍晴明もなれなかった陰陽頭(おんみょうのかみ)に昇進。日食を予言したことで知られる。 安倍章親(あべのあきちか) 安倍吉平の子、安倍晴明3代の子孫。1055年に陰陽頭就任した際、賀茂氏に暦博士を、安倍氏に天文博士を代々独占世襲させることと定めている。 安倍泰成(あべのやすなり) 安倍晴明4代の子孫。神明鏡では、妖狐・玉藻前と呪術で対決したと言われている。陰陽頭まで出世している。 安倍泰親(あべのやすちか) 安倍泰成の子、安倍晴明5代の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用されて1182年陰陽頭。卜占の天才で 粗大ゴミとその時期まで予言的中させ「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた。肩口に落雷した際に袖を焼いたものの奇跡的に怪我一つ負わなかったとされている。 蘆屋道満(あしやどうまん) (?-?) 道摩法師の名でも知られる平安中期の非官人陰陽師。播磨国(現在の兵庫県)の民間(ヤミ)陰陽師集団出身で、呪術に長けドーマン(九字を表す縦4本・横5本の格子模様)という呪符を好んで使ったとか、安倍晴明の晴明紋を使って「ドーマンセーマン」と呼ばれるようになった等の説がある。安倍晴明が当時の関白藤原道長に重用 されていたのに対し、蘆谷道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされ、これが両者の永遠のライバルとしての関係を決定づけた。室町時代の播磨の地誌である「峰相記(ほうしょうき)」には、藤原顕光に呪詛を依頼された蘆谷道満は安倍晴明にこれを見破られたために播磨に流され、道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだと記されている。歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる 脱毛として描かれることが多い。 道満が上京し晴明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を16個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が16!」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。しかし、長持を開けてみると、晴明が式神(しきがみ)を駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が16匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという話や、 遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて「金烏玉兎集」にまとめ上げたといった話が有名である。 阿倍晴明伝説が全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっており、日本各地に「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く残っている。 智徳法師(ちとくほうし)(?-?) 包茎の僧侶でありながら陰陽道の呪法や占術を用いて金を稼ぎまくったヤミ陰陽師。今昔物語の、海賊に襲われた船主に同情して陰陽の術を用いて船荷を取り戻した話や、陰陽道を身につけて得意になり、噂に聞く安倍晴明の実力を確かめようと自分の式神(しきがみ)を連れて呪術対決に臨んだが、逆に安倍晴明に式神たちを隠されてしまい、陳謝して自分の式神を返してもらうというエピソードで知られる。人物像や環境設定が酷似しているため、蘆谷道満と同一人物ではないかとの説が有力である。 陰陽道の祭祀概略 陰陽道自体が時代毎に多様化したのに伴いその儀礼もまた一様ではない。他教との影響関係等も含め陰陽道の儀礼は未だ研究の途上にあるため具体的に述べることは難しい。伝来当初はいわゆる呪禁道の影響も強かったであろうと考えられる。『延喜式』「陰陽寮」には宮中における陰陽師の司った祭りの記録が見える。それによれば儺祭(節分・鬼やらい)や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。このうち儺祭では陰陽師が(壇に)進んで祭文を読むとあるが、この祭文は前半が中国語(漢字)で構成された音読部分であり、後半が祝詞のように万葉仮名の振られた訓読部分となっている。また、中世の『文肝抄』には幾つかの陰陽道祭の概要が述べられているが、陰陽道の祭儀は大・中・小法からなり、状況により使い分けていたようである。 トラック買取の代表的な祭儀といえば、人の寿命を司る泰山府君を祭る泰山府君祭や天皇の即位毎に行われた天曹地府祭などを挙げることができるが、『文肝抄』にはこの他五帝四海神祭や北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭等種々の陰陽道祭があったことが記され、幾つかは祭文が伝存している。 陰陽師が用いた道具・呪法など 九字(くじ) 陰陽道で用いられたとされる呪文の一種。一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の九字を言い、結印したり四縦五横に切る所作を伴う。現在のところ「九字」の初見は葛洪『抱朴子』「登渉篇」とされるが、同書では末尾が「在前」ではなく「前行」となっており、入山時に唱える「六甲秘祝」として呪のみが載る。したがって九字の呪、四縦五横に切る所作、結印の所作は別個に形成されたものと考えられる。なお、四縦五横に切る所作自体は道教経典等にも見え古くから存在しているが、結印の所作は見えない。結印の所作は恐らく我国伝来後、密教或いは修験道が受容する中で付加されたものであろう。 なお、陰陽道における九字では、古いものでは鎌倉期の陰陽道の反閇儀礼を伝える文献に四縦五横に切りながら「朱雀・玄武・白虎・勾陳・帝后(?)・文王・三台・玉女・青龍」を唱えるものがある。現存する文献では身固や反閇の際に用いられたことがうかがえる。 「急急如律令」 元来は、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令の如く行え」の意。本来は「急」の字は「ロ(口編)」がつく。道家が呪文に取りいれたものを陰陽師も用いたものであろう。なお、密教や修験道においても「急々如律令」の呪は用いられる。 六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん) 六壬式占によって吉凶を判断するための道具で、地を表す「輿(よ)」と呼ばれる方形の台座と、天を表す「堪(かん)」と呼ばれる円形の天盤で作られている[3]。地盤には、二十八宿、十干、十二支、四隅の八卦が記載され、天盤には十二月将等が記載されている。天盤の十二月将を地盤の十二支に合わせることで、簡易な計算を行ったのと同じ効果が得られる。式盤は;h(ちょく、木偏に式)とも呼ばれる。正しく作成するためには、輿である地盤には雷に撃たれた棗の木、堪である天盤には楓(ふう)にできるコブである楓人を使用する。 渾天儀(こんてんぎ) 天文上の変異知るために天文観測に用いた道具で、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測した。特に本来はあってはならない箒星(ほうきぼし=彗星のこと)が現れると大災や天変地異が起こるとされた。 呪符・霊符 陰陽師が用いたとされる、種々の紋様や呪文を記載した護符。俗に「 セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星・ペンタフラマ・ペンタゴン)」や「ドーマン(九字格子)」と呼ばれる図形を記すものも多い。他にも「鎮宅七十二霊符」や「×」・「篭目」・「渦巻」・「六芒星」や、「急急如律令」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符がある。 元来中国で用いられていたものが伝来したものと考えられるが、我国における護符の歴史は未だ解明されていない部分が多く、古くは藤原京跡などから「急々如律令」の呪句を書き付けた呪符木簡等が出土しており、奈良時代にはすでに活用されていたらしい。古い資料はほとんど残っておらず、たとえば平安当初にどのような呪符が用いられていたか等は不明な点が多い