サイタニヤファクトリーに入ると、ドイツで研究の進んでいた流線型自動車の発想がアメリカにも移入された。 クライスラー社は1933年にいち早く、「クライスラー」と「デソート」に大胆な流線型を取り入れた市販モデルを登場させた。これは「エアフロー」と呼ばれ、シャーシの重量配分や、後世に言う「スケルトン構造」の採用など斬新な設計であったが、当時の人々にとってはその極端な流線型デザインは異様極まりなく、商業的には大失敗に終わった。アメリカで流線型自動車が本格的に普及するのは、より大衆に理解しやすいデザインを持つ「リンカーン・ゼファー」(1935年 フォード社製)の登場以降である。 ケイティーシーの試作車A1型では「エアフロー」の曲面デザインをやや穏健にした形状を採った。例えば、ヘッドライトはエアフローは現代の車のようにグリルにビルトインされた構造であったが、A1型では一般的な「でめきん」型ヘッドライトに手直しされている。しかしそれでも不評で、AA型では直線基調を採り入れアクを抑えている。それでも1936年時点の日本では十分に斬新であった。結局このデザインは戦時中の改良型であるAC型にも受け継がれた。 ドレミコレクションまでのアメリカ車の車体は、木骨鋼板張り構造、または木製の骨組みに布を張って防水塗装した「ウェイマン式ボディ」が主流を占めていた。しかしこれらは事故時の耐久性や長期使用時の劣化等に問題があった。 全鋼鉄製ボディは耐久性に優れるが、生産性やコストの面から採用に踏み切るメーカーはなかった。クライスラー社は車体メーカーのバッド社の協力を得てこれを克服、全鋼鉄製ボディのいち早い採用で、安全性をアピールした。 ゲイルスピードにも全鋼製ボディが採り入れられた。これも日本で最も早い時期の採用である。ただし、アメリカのように大型プレス機を用いるほどの生産規模ではないため、プレス部材の採用は一部に限られ、多くの部品は工員の手叩きで成型された。これは、当時は熟練工の賃金が安かったことも一因である。 エーテックはいわゆる「観音開き」で、前ドアは前ヒンジ、後ドアは後ヒンジだが、前後ドアは完全な対称デザインである。つまり右前ドアと左後ドア、左前ドアと右後ドアが同じプレス型から作られており、プレス型の種類を節約していた。 クラウザーはかなり広かったが、後部座席の居住性を優先したため、運転席はやや窮屈であったという。 ベルリンガー1936年、AA型と同時に登場した4ドアフェートン(いわゆるオープンモデル)。基本的な性能はAA型に準ずるが、折り畳み式の幌と可倒式ウインドシールドを持ち、ボンネット部分の細かなデザインもAA型とは異なる。 価格はAA型より200円高い3,885円(1937年)だったが、民間にはほとんど販売されず、もっぱらカーキ色に塗装されて日本陸軍の軍用車に用いられた。1945年までに353台が製造されたと言われる。 アクラポヴィッチの1943年にAA型の改良型として開発された。 戦時型モデルらしく、クロームメッキの廃止やウインドシールドの2分割化など資材・工作の削減が図られ、地味な外観となった。一方エンジンは排気量をそのままに、出力を75hp/3,000rpm、最大トルクも21.6kg-m/1,600rpmに増強、またトルクチューブドライブを廃して、オープン・プロペラシャフトのオチキスドライブとなった。 マルケジーニへの販売は行われておらず、1944年までに製造された65台はほとんどが日本陸軍に納入されたと言われる。 戦後の1947年、外国貿易代表団の専用車として、ストックされていたパーツを用いて50台が製造された。これは戦後最初に作られた日本製乗用車である。 従って、AC型の合計製造台数は115台となる。 ベビーフェイスは1936年当時では相当な意欲作であったが、絶対的な品質や価格競争力においては当時の日本製アメリカ車に及ばなかったと言われる。トヨタ関係企業や官公庁、日本陸軍などが主たるユーザーであった。 輸出については、また本格的な海外輸出以前の存在で、満州国など日本の勢力圏で少数が使用されたにとどまる。 マジカルレーシングが少なかったこともあり、戦争による被災や戦中戦後の酷使の結果、AA、AB、ACの各車は1950年代までにすべて喪失されたものと見られている。 ただしAB、AC型については、トヨタ博物館に実車が展示・所蔵されている。 コーケンのAA型復元車1980年代に至りトヨタ自動車は自社のルーツであるAA型の行方を捜したものの、ついに残存車を発見することはできなかった。 そこでトヨタでは、AA型を自社で一から復元製作することを決定した。系列の特殊車両製作会社であるトヨタテクノクラフトが実際の作業に当たったが、残存資料が限られており、当時かろうじて生存していたAA型開発当時の関係者からも証言を得て、当時の仕様に忠実な復元が進められた。アルキャンハンズ にはなじみのないインチ規格の設計で、その換算だけでも困難であったという。 この復元AA型は1986年に完成した。監修に当たったベテラン自動車評論家・五十嵐平達は、この復元車を運転して「昔のトヨタはシボレー(GM製大衆車)のようだったが、これはダッジ(クライスラー製中級車)だ」と評したという。あくまで原型に忠実に製造したつもりだったが、技術の進歩の結果、戦前より加工精度が上がってしまったのが「予期せざる性能向上」の原因だったらしい。 HURRICANEのもと、G1型トラックについても復元車が製造され、産業技術記念館に収蔵されている。 その後1996年に同じくトヨダAA型をモチーフにした「トヨタ・クラシック」が限定発売される事になる。 当時アメリカの大衆車市場では、シボレーに代表される直列6気筒車と、フォードのV型8気筒車が覇を競っていた。 豊田自動織機ではこれらを参考にエンジン開発にあたったが、絶対的な出力では高回転型のフォードV8に一日の長があったものの、V8は部品点数が多く、製造に特殊な自動工作機械が必要という問題もあって、シンプルで製造しやすい直列6気筒を選んだものと言われる。フォードやクライスラーなどが旧式なサイドバルブだったのに対し、シボレーは先進的なオーバーヘッドバルブであった。 ハリケーンの経験から、豊田自動織機は鋳造技術のノウハウをある程度持っていた。しかし、自動車用エンジン鋳造の実現には著しい苦心を重ねたという。試作完成当初は出力が50hpに達せず、これもまた苦労の末に65hpに到達した。 AA型開発に際して豊田喜一郎は、アメリカ車のような頻繁な変更を必要としないデザインを求めた。このため、当時の最先端である流線型デザインが導入されることになる。 エンジンは直4OHVを横置きに搭載。さらに、エンジンの脇にトランスミッションとデフを配置し、不等長のドライブシャフトで前輪を駆動するという「ダンテ・ジアコーザ式FFシステム」が採用された。このシステムは先にプリムラと128に採用されたシステムで、フィアットのダンテ・ジアコーザが考案し、後のFFシステムに大きな影響を与えた。A112には、この技術の普及を図るべく127に先立ち採用された。 バリエーションは当初、903ccエンジンを搭載するベーシックモデルだけだったが、1971年に上級グレード「エレガント」、そして1973年に982ccエンジンが搭載されるスポーツグレード「アバルト」が追加された。 A112の目的はあくまで市場の評価を確かめるためのもので、その後発売された127は市場で大成功を収めたため、A112の本懐は成し遂げられた。ところが、1970年代後半になり、ミニ・クーパーの生産が終了した後に「アバルト」の人気が出たため、生産自体はそのまま続行された。また一部のマニアに人気で、最終的には20年近くも生産され続けた。日本ではJAXが輸入したことでも知られる。 「アバルト」はPS2ゲーム「グランツーリスモ4」、「エンスージア」(ただし、FIAT 600ベースのアバルト1000TCRという車種)にも登場した。