長篠の戦い

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。主戦地が設楽原(したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原の戦い(ながしのしたらがはらのたたかい)と記す場合もある。 ナノ化粧品 通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされるが、様々な論点に異論が存在する。 女性 薄毛 目次 [非表示] 1 合戦の経緯 1.1 開戦まで 1.2 長篠城攻城戦 1.3 信長軍団の到着 1.4 鳶ヶ巣山攻防戦 1.5 設楽原決戦 2 影響 3 参戦武将 3.1 織田・徳川連合軍 3.2 武田軍 4 長篠の戦いをめぐる論点と詳細 4.1 両軍の開戦理由 4.2 両軍の兵力数と損害数 4.3 織田軍の鉄砲数と三段撃ち 4.4 武田軍が大敗した理由 4.5 武田騎馬軍団の存在 5 参考文献 6 関連項目 女性用 育毛剤 [編集] 合戦の経緯 [編集] 開戦まで 1573年8月、武田家家臣であった奥平貞昌(後の奥平信昌)は武田信玄の死に際し、父・貞能の英断により一族郎党を連れて徳川方へ寝返る。家康は武田家より手に入れたばかりの長篠城に貞昌を配した(つまり対武田の前線に置いた)ため、2年後の1575年4月、武田勝頼は1万5000と号する大軍を率いて長篠城を包囲する。 育毛剤 女性 [編集] 長篠城攻城戦 武田の大軍に対して長篠城は500の寡兵に過ぎなかったが、抵抗は激しく武田軍を苦しめた。しかし、兵糧蔵を落とされたことで数日以内に援軍が来なければ落城必至という状況に追い詰められ、貞昌の家臣・鳥居強右衛門が密かに脱出し、岡崎城の家康に後詰を要請。予め家康は織田家に援軍を要請していたため、既に5月13日には信長は3万の軍勢を率いて岐阜を出発していた。 抜け毛予防 なお、援軍が来ることを伝えるべく即日、長篠城に向かった鳥居だったが、武田軍に捕らえられてしまう。武田方は城兵の士気を挫くべく「援軍は来ない」と伝えれば助命すると提案し、これを鳥居は承諾する。しかし、鳥居は直前で約定を反故にし「援軍は数日以内に来る」と伝えて城の士気を高めたため、処刑されたという逸話が残っている。 女性用 育毛剤 [編集] 信長軍団の到着 信長軍3万と家康軍8000は、長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても川に沿って丘陵地が幾つも連なる場所であって、相手陣の深遠まで見渡せるほど視界の良い場所ではなかったが、信長はこの地を戦地に選定し、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁に馬防柵を敷くという当時の日本としては異例の野戦築城だった。つまり、信長側は無防備に近い鉄砲隊を主力としてこれを守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術をとった。 女性 抜け毛 一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たち、特に武田四天王といわれる山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われるが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3000ほどを置き、残り1万2000を設楽原に向けた。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒を飲んで決別したという話がある。 育毛剤 通販 信長は、本来であれば虚勢を張ったりして自軍を強く見せるのが戦の常であるにも関わらず、逆に弱いと吹聴して回ったとされる[要出典]。相手の油断を誘ったという面もあるが、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田の騎馬隊を誘い込む狙いであった。 育毛剤 抜け毛 [編集] 鳶ヶ巣山攻防戦 5月20日夜、酒井忠次率いる東三河衆の他、織田軍・金森長近などの与力、また鉄砲500丁を持たせた計約3000名という大部隊(『信長公記』によると約4000名)が、密かに豊川を渡河、尾根伝いに武田軍の後方(長篠城方面)へ回り込み、翌朝、長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦で、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ヶ伏所砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たすと同時に、武田軍の前後を抑えることに成功する。 育毛剤 効果 この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方は、主将の河窪信実をはじめ、三枝守友、五味貞成、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死し、さらに武田本隊へ退却した残存兵を長篠城の奥平軍を加えた酒井奇襲隊が猛追し、長篠城の西岸・有海村では高坂昌澄が討ち取られている。このように酒井隊の一方的な展開となったが、先行深入りしすぎた徳川方の松平伊忠だけは、退却する小山田昌行に反撃されて討死している。 この作戦は、同夜の合同軍議中に酒井忠次が提案したが信長に一蹴されたという。ところが、軍議を終えてすぐに信長は酒井を密かに呼びつけ、作戦の決行を命じた。武田軍の諜報を案じて、軍議では敢えて採用しなかったのが理由である。 育毛剤 レディース [編集] 設楽原決戦 5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃、退路を脅かされることを恐れた武田軍が動き合戦が開始される。織田・徳川連合軍1万5000と武田軍1万2000による戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)。結果は織田・徳川軍の勝利であったが、6000近い犠牲者を出した。一方の武田軍は1万2000の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出したが、織田・徳川軍の戦死者が名も無き足軽雑兵(特に織田軍はほとんどが領民ではなく傭兵)だったのに対し、武田軍の戦死者は武田四天王の山県、内藤、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継という顔ぶれで、被害は甚大であった。 勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、高遠城に後退。上杉謙信と和睦し、上杉の抑え部隊1万を率いる高坂昌信と合流後、甲斐に退却した。 織田・徳川方の3000丁という量の鉄砲、さらに鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法で、最強と呼ばれた武田の騎馬隊を破ったというのが有名な通説であるが、3000丁という量と三段撃ち戦法については史料上の問題が多く、否定する学説が大勢である(詳細は#長篠の戦いをめぐる論点と詳細を)。ただ、当時としては最大規模の鉄砲隊の投入、また騎馬隊を防ぐための馬防柵が活躍したのは事実である。 [編集] 影響 この戦いによって長年の悩みであった武田家を抑えることに成功し、織田家は勢力を拡大、特にもう一つの悩みであった石山本願寺に対する圧力をいっそう強める。徳川家は三河を完全に掌握し二俣城、高天神城を取り返すことに成功する。 多くの優秀な将兵を失った武田家は、勝頼の下で再編成を強いられるがこれに失敗し、さらに上杉家や北条家との外交の失敗もあり、以後、急速に衰退して1582年の滅亡へ至る。 長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室としている。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保障するというお墨付けを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで栄えることとなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。 参戦武将 [編集] 織田・徳川連合軍 設楽原決戦の本隊 織田軍 織田信長、織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、水野信元、(一説には明智光秀も参戦) 徳川軍 徳川家康、松平信康、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠教、高木清秀、成瀬正一、日下部定好 鳶ヶ巣山攻撃隊 織田軍 金森長近 徳川軍 酒井忠次、松平康忠、松平伊忠、松平家忠、松平清宗、本多広孝、奥平貞能、菅沼定盈、西郷家員、近藤秀用 長篠城籠城軍 奥平信昌、松平景忠 [編集] 武田軍 設楽原決戦の本隊 武田勝頼、武田信廉、小山田信茂、武田信豊、穴山信君、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、跡部勝資、土屋昌次、土屋直規、望月信永、横田康景 長篠城監視部隊 鳶ヶ巣山、その他の砦守備隊(長篠城の南対岸) 河窪信実、三枝守友、名和宗安、飯尾助人、五味高重 有海村駐留部隊(長篠城の西対岸) 小山田昌行、高坂昌澄、山本勘蔵